日本では今どんな果物が旬だろう。ボストンでは、なぜかグレープフルーツがシーズンということで安い。南の地方でとれて運ばれてくるのだと思うが、大型が1個50円くらいのセールになっていた。しかも、とても美味。一方、夏の間感激するほどおいしかったプラムは旬を過ぎて味もいまひとつ。やはり旬というのは大切だ。

 さて、人生の旬とは何だろう、と考えてしまった。一般には若い世代が旬といわれる。年をとると、盛りを過ぎたとか、枯れたとかいわれる。生物学的見地だけから見れば、確かに老化するほど細胞内の水分は減少し、枯れていくという表現は当たっている。

 現代はそうした老化を遅らせるアンチエイジング研究も盛んだ。旬をのばそう、とする考え方だ。むろんそれはいいのだが、私個人の考え方としては、生物学的な旬のみに焦点を当てる必要はないのだと思っている。

 体力や細胞内水分、つまり体力、美しさ、記憶力は年と共に衰え、旬を過ぎるが、別の旬は年と共に充実してくると思うのだ。例えば、ものを深く洞察する力、思考能力、共感力などは年をとるにつれ旬を迎える能力である。

 しかし、とても残念なことだが、こうした年と共に増える能力は、体力や美貌という生物学的能力と違い、ほうっておいても存在する力とはいえない。要は天賦のものではなく、自分で磨きをかけて旬を作り出していかねばならないものなのである。

 いつまでも若さという旬を追い求めることにエネルギーを使っていると、こうした「年をとってから旬を迎える」はずの能力に磨きをかけるエネルギーをなくしてしまう。

 体力や美しさが減少しても、別の旬を持てる大人は輝いていられる。そんな大人が少ない。若いころにはとてもこんなふうにできなかったなあ、と思えることを人生の中につくっていくのが大人の幸せである。