ある会から、会員が数千人に達したという報告の文書が届いた。書面には誇らしげにいかに会員が短期間に集まったかという内容が記されている。それはまったくまっとうでごく普通のことなのだが、私は常々こうしたごく普通のことに「アレ」という気分になる場合が多いのだ。

 確かに、数が多くなればパワーにはならない。ものは売れなければ、視聴率は上がらなければ、力にはならない。学問の世界でも学会の会員数が多くなければ力は弱いし、政治でも数が揃わなければ政権は握れない。

 だから、「数」は社会の基準となっている。支持する人が多いことは、人気のバロメーターだ。では逆に、「数」の論理で負けているからそれはダメなものだろうかというと、逆は必ずしも真ならず、である。私事だが、私の本はベストセラーになったことがない。数の論理からみるとダメな商品である。何十万部も売れたらさぞ気分が良いだろうだろうた思うが、先月、出版社から転送されてきた一通の手紙を受けとった。

 それは読者からのもので、「この本は自分のために書かれたと感じて、泣きながら読みました」と記されていた。数の論理の栄光は得られないが、この手紙は私の宝物だ。数の論理はパワーを生む。何百万人が泣いてくれればもっとうれしいと思うかもしれないが、それはあり得ない。

 なぜなら、数の論理を基準にものを選ぶ時、そのものを求めているというより、「より売れている」「みんなが求める」ものを買おう、参加しようとして選ぶ人も増えるし、それをもとに何か商売しようと考える人も増えるからだ。数の論理と幸せの基準とは、往々にして噛み合わないことが多い。経済や政治は数の論理で動く。しかし、学問や芸術、人間関係という分野では、それ以外の幸せの基準も残しておきたいと思う。