子供のころジャンケンの「後出し」は最も嫌われる行為のひとつだった。
 今はどうなのだろうか。絶対に勝つとわかってからの勝負には、「安全な場」に身をおいて勝負する「ふり」をしている卑怯さがある。

 大人の社会では、インサイダー取引などが「後出し」心理によるものだ。金銭がらみの「後出し」は犯罪として規制されているが、それ以外の分野ではどうだろう。このところ、「後出し」だなあ、と感じることがとても多いのだが、みなさんはどうですか。

 例えば、最近、鳩山内閣に対する批判は連日激しさを増し、ついに辞任へと至った。しかし、いわゆる政治評論家といわれる人々で、首相の資質や政策の見通しの甘さについて、数ヶ月前から論理的に批判して、問題点を指摘した論評をメディアで発表した方が一体どれほどいただろうか。

 ワシントンポスト紙が首相を激しく批判して以来、日本の評論家たちのそれも激しくなったように感じてしまう。つまり、「後出し」評論だ。評論家は、絶対よくないとわかることを評論するのではなく、みんながそれでいいんじゃないかと思っているときに、疑問や矛盾を指摘してくれないといけない。そんな評論家や、それを取り上げるメディアがないと危険である。

 そう感じるのは、最近若者と議論をして、意見の後出しが多いからだ。「前に述べた人と同じです」などという答えに出くわす。人と違う意見を述べて批判されるより、みなと同じで安全な場に身を置きたいという心理。これは、アメリカの学生が自分の意見を述べる姿勢とは全く異なる。

 意見を述べるのも、ものを作り出すのも研究も仕事も、人の後追いで既に成功しているものを模倣し、改良するのはより安全だ。しかしそれは行き詰まる。今の日本経済の行き詰まりも、後出しの反動かもしれない。