先週「聴く力」について書いたが、マニュアル対応で同じような経験があるという声をあちこちで耳にした。確かに、マニュアルはとても便利で、それに沿って対応すると自分が必要な情報を獲得できる。しかし逆に、相手が自分に伝えたい情報を聴きとる力はアップしないこともあるだろう。

 ファストフード店などなら「ちょっとした聴きとりミス」ですむけれど、ちょっとしたミスですまない分野もある。例えば、医療の世界ではどうだろう、と思うとこれはこわい。

 問診でほぼ診察が決まるというくらい、診察室での会話は重要だ。最近は、患者さんの顔もまともに見ることなく、パソコン画面のカルテを眺めて、それに入力しつつ話をする医師もいるときく。マニュアル通りに質問しカルテに記入。患者さんの話の微妙なニュアンスを聴きとるのは難しいだろう。またマニュアルどおりに質問されると、患者さんの側も自分の言いたいことを十分に話せず、マニュアル質問に誘導された返答に終わってしまう可能性も出てくる。これは危険である。

 聴く力は「察する能力」に通じる。ただ聴くだけでなく、そこから相手の気持ち、状況を察することが、日本語というきわめて特殊な言語を持つ私たちの文化コミュニケーションの基盤になってきた。それが崩壊している。

 マニュアル対応は初心者でもそこそこ対応ができるという利点をもっているが、この方式に頼っているとコミュニケーションはどうなるのだろう。

 海外で今まで必ず言われてきたのは、「日本のサービスってすごいよね、ホテルもレストランも旅館も飛行機も。日本に旅行したい」という、いわゆるホスピタリティーの良さ。それもこれも、マニュアル対応ではない時間をかけて「察する能力」のたまものだ。政治、経済で後れをとる日本。察する能力は絶対守っておきたいと強く思うのだ。