高尚で純粋な欲求もすべては食欲が満たされてから
「空腹のときには決定するな」。
「ケンカしている2人にちょっと何かおいしいものを食べさせてごらん、争いは収まるから」。
そんなことをいうアメリカの医者がいる。確かに空腹になるとイライラして機嫌が悪くなるものだし、おいしい食事をすると、人は決まって「わあ、幸せ」と、つぶやくものだ。
デートをする2人はレストランで食事を共にし、食事の席で決まっていく仕事も多いものである。
マズローという心理学者は、「食べる」という欲求は人間の基本的欲求であるという。こうした生理的欲求が満足して初めて、次なる欲求の安全欲求(安全な自分の住居、自分の場を求める)が生まれるという。そして、それが満たされて社会承認欲求(社会の中で認められ、社会の中で自分の居場所を持つ)が生まれ、さらにそれが満たされると自己実現欲求(自分らしい固有の人生を過ごしたい)を目指し、最終的には自己超越欲求(自分らしい人生がさらに人のためにもなり、周囲の人を幸せにする生き方)が生まれる、と述べている。
自分らしく生き生きと過ごしたいという、極めて高尚で純粋な欲求も、まず人間のごく生理的な欲求である食欲を満たさなければ成立しないということは、否定できない事実であろう。なぜなら、人間は心や魂だけの存在ではなく、生身の肉体を持った存在なのだから。
食べることだけを人生の目的にしてはいけない。
食べることに人生を支配されてはいけない。
しかし、食べることを否定して精神論だけで自己超越はできない、のである。
さて、「バベットの晩餐会」は、こうしたメッセージを実に魅力的に表現した、女性作家アイザック・ディネーセン原作の映画化である。
人間の基本的欲求を否定しつつ、厳格なプロテスタントの教えに従って生きてきた老姉妹のもとに、フランスを追われたバベットがやって来る。バベットは家政婦として働き、北欧の村で次第に信頼を得るようになる。
自分らしさを表現することは
周囲の人の心を開くことにもなる
やがて14年の月日が流れ、ある日、宝くじで1万フランを手にしたバベット。それだけの資金があれば、再びフランスに帰ることができる。姉妹はバベットの幸運を喜ぶ一方、バベットのいなくなった生活を思い巡らすと、寂しいような思いに襲われた。バベットは、今では姉妹にとって、家族のように大切な存在となったのであった。
バベットはこれまでの暮らしのお礼に、晩餐会を提供させて欲しいと、姉妹に申し出る。姉妹は質素をモットーに、食べることの喜びを否定して生きているから、最初はこの申し出を断った。しかし、バベットのたっての願いということで、渋々この申し出を受け入れるのである。
フランスから次々に運ばれてくる食材、それらは姉妹も村の人々も目にしたことがないような、高価で珍しいものだった。名シェフだったバベットが全身全霊を込めて作ったその料理。初めは、「舌は神々をたたえるためのもの」として、黙々と食べていた姉妹や村の人々も、その料理の素晴らしさに次第に心を開き、喜びを表現していくのである。
ここで、姉妹や村人の心を開いていくのは、「単においしい料理」でもなければ、「珍しい料理」でもない。料理に込められたバベットの魂が、人々の心を開かせたのだ。
バベットにとって料理を作ることは、自分らしさを表現する世界なのだ。さらに彼女は、自分らしさを表現しつつ、周囲の人を幸せにするという自己超越欲求さえ満たすパワーを持っている。
バベットの創造性は、この晩餐会の一瞬で見事に表現されるのだ。これまでの14年間、クリエイティブな料理を作りたくても資金も味わう人もなく、できなかった思いを、その一晩で表現し尽くすのである。
しかし、それにしても、自己超越とは、何と美しくはかないものなのだろう。
バベットの1万フランは、この一夜の晩餐会ですべて消えてしまう。彼女はもう、フランスに戻れない。残りの人生は、この寒村で質素な食材の中で暮らすことになるのである。
創造性、一瞬の輝き、そのひとときのためにすべてを注ぎ込み、出し惜しみのないのが芸術というのなら、芸術は残酷なものだ。
しかし、すべてを失っても一瞬に賭けるバベットの潔さが私は好きで、そんな人生を送りたいと、心から思うのである。