1986年、男女雇用機会均等法が施行され、女性の社会進出が本格化した。「働く女性」という言葉があちこちで、きらめきを持って使われ始めて数年後、夢を持って職場に登場した女性たちは、思いがけず、さまざまな壁にぶつかることになる。
一つは「何だ、やっぱり女か」、「女が働けるのか」という男性の視線である。
営業職に就いた女性が「やっぱり女か」といわれたくなくて、ゴルフや接待に頑張り過ぎたり、お酒を飲みすぎたりして体調を崩したりしたものだ。その上、取引先で、「上司を出せ」といわれ、心中「私が上司なのに・・・」と思いつつ、男性が100%なら、自分は120%頑張らなくちゃと、無理をし過ぎて身体を壊す女性もいた。
もう一つは、家庭を持って仕事を続ける女性がぶつかる「スーパーウーマン症候群」という壁だった。
いくら仕事をしていても、やはり家事は女の役目と思い、仕事も家事も手を抜かずに、すべてを完璧にこなそうとして、身も心も燃え尽きてしまったりした。
男性と同じ仕事をして、しかも家事もするなんて、考えてみればとても無理。女が仕事をするのは、なかなか大変なことなのだった。
弱音を吐くのはイヤ、でもすべてを抱え込んで突っ走るのは疲れてしまう。
そんなふうに疲れたとき、そっとそばにいてくれて、助けてほしいとき、必要に応じて手を差し伸べてくれる人がいたら、頼れる男性がいたら、心の中の、ありのままを話しても、ちゃんと受け止めてくれる男性がいたら、どんなにいいだろう―と思う女性が増えたそのころ、映画「ボディーガード」はさっそうと登場した。
レイチェル(ホイットニー・ヒューストン)は歌手で女優、スーパースターで、しかもシングルマザーのスーパーウーマンである。スターであるがゆえ、脅迫状を送られたり、身近で不穏な事件が起こったりしているが、弱音を吐かず、毅然と頑張っている。
彼女がスーパーウーマンたるところは、自分の意思をはっきり主張し、依存的でなく、自立した生き方をしていることだ。それは、ちょうどそのころ、社会進出をした女性たちが、自分の姿と重ね合わせることができただろう。
しかし、脅迫に立ち向かうレイチェルも、度重なる事件に不安を感じて、実力あるボディーガードのフランク(ケビン・コスナー)に護衛を依頼する。フランクはプロのボディーガード。仕事に関して自分の方針と意見をはっきりと主張する。そのためレイチェルトとは当初、ことごとく対立するのだが、危機を彼に救われたことから、フランクに心を開くようになる。やがて二人の間に信頼関係が生まれ、それは恋に発展していくのである。
私はかつて、試写会でこの映画を観て、レイチェルがフランクに向かって「私を守って」と叫ぶシーンで、感動のあまり、涙が出てしまった。それは共感と羨望から生まれたもので、おそらく当時の「頑張り過ぎている女性たち」の多くは、「ボディーガード」を観つつ、そんな涙を流したのではないか、と思う。
自他ともに「強い女」とされている女たちは弱音を吐けず、「私を守って」、「私を助けて」なんて、とても口に出せない。自分が頼れるほど強い男はそうそういなくて、下手をすると、男を守る役回りになってしまうこともあるくらいなのだ。
だから、強い女、スーパーウーマンを守ってくれる、ケビン・コスナーを、憧れを持って見つめるのだ。
さらに「ボディーガード」では、姉妹間の確執も描かれている。レイチェルの命を狙うのは、彼女の姉で、付き人をしているニッキーが依頼した殺し屋だったのだ。
なぜニッキーがそんな行動を起こしたのか。それは容姿も歌の実力も、全てにおいて妹に負けたと感じているニッキーの、いわばアイデンティティーの危機から生まれたものだった。
自分らしさを生かすことができず、妹の付き人としてだけの人生を過ごす自分に、フラストレーションを感じたニッキーは、その感情を妹に向けてしまったのである。
「ボディーガード」は主演のホイットニー・ヒューストンのプロモーション映画であるという感もある。それにもかかわらず、この映画に引き付けられるのは、単純なストーリーから、現代社会の中で、鎧を身につけるように感情を抑えて生きていく、スーパーウーマンの叫びが聞こえてくるためである。
「ボディーガード」を観て、いいなあ、と思う女性は、かなりのスーパーウーマン。もしかしたら普段、自分の気持ちを抑えて、頑張り続けているのではありませんか?
<「ボディーガード」 1992年 アメリカ >
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