人は皆、心の奥底にいる理想の恋人を探している

 神話によると、神が最初に人間をつくったときは、胴は球形で手足をそれぞれ4本ずつ持ち、頭は一つで二つの顔が左右別の方向を向いていたという。ところが、人はすぐに神と力を競い合うようになったので、神は困って人を二つに分けてしまった。そのために人は、自分の片割れを求めてさまようようになった。それが異性を求め、恋をする始まりだという。

 人は皆、心の奥底に理想の男性(女性)を持っている。出会った相手の中に、この理想の恋人を見いだすとき、人は恋に落ちるのだろう。理想の恋人が住んでいるのは、当人も気づかぬ心の奥。というわけで、いくら頭で考えても、理想の恋人像は姿を現さない。

 条件がよくて、頭で考えれば理想的で、将来も有望な彼。あるいは、きれいでかわいくて、育ちがよくて、周囲からよいお嬢さんといわれる彼女。彼らが、必ずしも理想の彼、彼女になるとは限らない。お金がなくても格好よくなくても、その相手に引かれる。ドジで料理が下手でも、彼女を好きになってしまう。

 それは、恋が左脳から生まれるものではなく、もつとその人の本質的な部分、心の奥底からわき上がる「自分への片割れ」への思いから生まれるものだからである。
 頭で考えすぎると恋はできない。条件や世間体ばかりほ計算しているうちは、その「思考の鎖」に縛られていて、恋は身動きできないのだ。
 さて、「月の輝く夜に」の主人公、ロレッタ(シェール)は、左脳優先の思考型の女性である。乙との死後、葬儀社に勤め、経済を考え、将来設計もきちんとしている。

 彼女に結婚を申し込んだのが友人のジョニー(ダニー・アイエロ)で、イタリアからの移民一家の長男である。ロレッタは結婚を承諾し、将来を考えて、失敗のないように計画を立てる。この結婚は、まあ日本でいうと「将来の安定が約束された。ときめきはないが無難な見合い結婚」のようなものである。

 ところが、ジョニーが病気の母親に結婚の報告に出かけた間に、ロレッタはジョニーの弟・ロニー(ニコラス・ケイジ)に出会う。ロニーはパン職人で、兄を憎んでいる。兄のせいで事故を起こし、片腕を失ったと思っているからだ。そしてこの出会いが二人の人生を一変させる。
二人はお互いにとって「探していた片割れ」だったのである。

「好き」になる理由が
わからないのが恋である。


 出会った途端に二人は引き寄せられ、恋の波に飲み込まれてしまう。あれほど計画的で理想的だったロレッタが、その「思考の鎖」を一瞬に解き放ち、ロニーと抱き合うシーンは、恋の本質を的確に表現している。恋は計算せず、予測もつかず、一瞬にして始まる。

 そして、相手の何がそれほどまでに引きつけているか、本人もよくわからないのが恋なのである。
 「なぜ、彼(彼女)が好きなの?」という質問は愚問である。理由がわからないのが恋であり、理由のある恋は、本物ではないのだ。恋とは、相手と会うそのひとときのために、自分を最高に演出しようとするものだ。

 映画の中で、ロレッタとロニーがオペラを聴きに行くデートシーンがある。普段、自分の身なりなど構ったことがないロレッタは、髪を染め、新しいドレスを買い、ハイヒールを履いて待ち合わせの劇場に向かう。ロニーもまた、普段の仕事着から着替え、タキシードにブラックタイで向かう。二人は、あまりにも普段と違うお互いを、最初は見つけることができない。やっと、素晴らしく変わったお互いを見つける場面は、心に染みる。

 その人に会うために美しく装う、という行動。あなたは最後にそんなことをしたのは、いつごろでしたか?恋をするときれいになる、というのは、相手に見せるために最高の自分を演出するからである。
 「あーあ、近ごろそんな気分になっていないなぁ」と思われる方は、
思考の鎖でがんじがらめになっているからでは? しばし、思考ばかりを優先するのをやめて、自分の心の奥に触れ合うひとときを、つくってみることも必要だろう。

 この映画では、随所に、象徴的に「月」が輝くシーンがある。
 月は、太陽が持つ、意識的な強さとは対照的である。月が心の無意識の部分に光を投げかけると、恋が始まるのである。
 最後に付け加えると、ロニーを演ずる若き日のニコラス・ケイジがといも魅力的だ。ニコラス・ケイジという人は、美男子ではないのに、役を演じると素晴らしく魅力を放つが、それはこの映画でも証明されている。