恋愛をしたとき
どんな行動をとる?

 今回取り上げる『プリティ・ウーマン』。実はこの映画、私の最も嫌いな映画の一つである。
 私がこの映画を観たのは、海外に向かう機内だった。何しろ睡眠不足で「飛行機に乗ったら寝よう」と思っていたところ、スクリーンに映し出された映像を何気なく観ていたら、途端に怒りのあまり眠れなくなってしまった・・・というくらいなのだ。だから、どれほど嫌いなのかはおわかりいただけるだろう。それほどまでに、男女を「型」にはめすぎているのである。

 ならば、なぜそのような映画を取り上げるかというと、私が嫌いである一方で、この映画が「だーい好き」という人も多いからである。この映画で、私がリチャード・ギアを嫌いになってしまったのと反対に(それまでは好きな俳優だった)、彼を好きになった人も結構多い。それにジュリア・ロバーツはこの一作で、良くも悪くもスターダムにのし上がったのである。
 「好き」と「嫌い」がこれほど対照的な映画には、「心理的なカギ」がある。以来、私はこの映画を「心に沈むジェンダー度チェック」という、一種の踏み絵として捉えている。

 『プリティ・ウーマン』のストーリーは、実に単純極まりない。ハリウッドのストリートガール、ビビアン(ジュリア・ロバーツ)が、企業買収を繰り返すビジネス界のセレブ、エドワード(リチャード・ギア)と知り合い、彼とのかかわりの中で成長し、自分らしい生き方に目覚め、彼にプロポーズされる・・というお話だ。

 これをシンデレラストーリーと評する人もいねが、以前この連載で取り上げた『エヴァー・アフター』とはまったく異なる。どちらかというと、大ヒットした『マイ・フェア・レディ』と共通するものがあるだろう。それは、無邪気な女、まだ自分らしさを知らない若い女が、年上の男性によって変身し、磨かれていき、その相手と結ばれる。という共通点である。
 こうしたテーマが人の心をくすぐるのは、男女が心に持つジェンダー的な思考回路によるところが大きい。

この映画の感じ方であなたの心の願望が明確に

 ところで、人は「この人と結ばれたい」と思う相手が現れたとき、ジェンダー的な行動をとる、といわれている。男は男らしく、女は女らしく。・・という行動がそれである。例えば、仕事の場では自分の考えをはっきり述べるような女性でも、「結婚したい」と思う相手の前では、途端におとなしく、相手に従う態度をとってしまったりする。

 待つ。相手に合わせる。料理をしたり、彼のために編み物をしたり、買い物をする。これが女らしい行動である。一方で男性は、相手をリードする。車で送り迎えする。など、男らしいといわれる行動をする。

 好きな相手が現れたときぐらい、こんな行動をとるのも悪くはない。だが問題は、「女は女らしく、かわいくリードされなきゃならない」という束縛で、なぜか自分を縛ってしまう女性が多いこと。そして、やはり女は女らしく従順なのがいいなあ、というように「その人らしさ」より、自分がリードできる「かわいい女」を求めてしまう男性が多いことだ。

 そうした男女にとって、『プリティ・ウーマン』は安心して観ることができる映画なのだ。『プリティ・ウーマン』の中で、ビビアンがささいなこと─食事やドレスなどの一つひとつに、無邪気に驚き、楽しみ、それをエドワードが喜びを持って眺めるシーンがある。男性にとって、自分が与える一つひとつを「初めてのこと」として受け取ってくれる女性。自分がリードできる相手は、「かわいい」ものだ。

 先日、ある男性と話をしていたところ、「女性も、だんだん年をとると、いろいろな経験をしているから。(会話をしても)つまらない。若い女の子は何を食べさせても『すごーい』と驚いてくれるから、かわいい」などといっているのを聞いて、「なるほど」と思ったりした。世の男性は、経験のある女性を驚かせてみよう、というガッツがないのだろうか。

 まあこれがジェンダー的発想なのだろう。
 さて、あなたはこの映画をどう観るだろう。この映画に対する感じ方で、あなたの心の中の「男らしさ、女らしさ」願望がはっきりするのだ。

 最後に一つ、この映画の救いは、エドワードがビビアンとのかかわりの中で、企業買収を今までとは異なる穏やかな手段に変更したことである。男性型思考の中に、女性的感性を加えたことで、エドワードの人生もまた、変化をしたのである。単純な仕立てではあるが、両者が影響を与え合ったという見方をすれば、まあ許せるだろうか。
 そんなことを思いながら観ると、この映画は興味深いものになる。