自立した素敵な女性は、恋人を必要としていない?

 美人で賢くて、でも威張っていなくて、生活力があり、自立していて、面倒見もいい。 なのに、ボーイフレンドも、恋人もいない、という女性がたまにいるものだ。
周囲の人は「なぜ?」と思って、素敵だと思われる男性を、彼女に紹介するのだが、進展せずにやきもきする。
 そんなシーンを、ご覧になったことがある人も多いことだろう。この映画の主人公も、そんな女性なのである。
 素敵な女性に恋人がいない理由はただひとつで、それは「彼女が恋人を必要としていない」からである。
 恋をしたいなぁ、恋人が欲しいなあ、と思っている女性には、恋がいつか訪れる。しかし、恋を必要としていない女性には、いつまでも恋はやってこない。
それでは、なぜ、彼女が恋人を必要としないのだろう。
その理由はさまざまである。
 第一に、あまりにも自立していて、仕事もあり、生活も充実、好きな趣味もあり、一人で自己完結しているから恋人が必要ない場合。
 第二に、恋愛によって自分の生活ペースを乱されるのがイヤ、相手のペースに巻き込まれるのがイヤなので、自分を守る壁をつくって相手を寄せ付けない場合。
 第三に、過去にあまりにも恋で悲惨な目に遭っていたり、強烈な恋愛をして、その人のことがずっと忘れられずに固執している場合。
 第一の場合には、周りが何もいうことはない。例えばマザーテレサのような、性を超越した素敵な女性には、恋愛は必要ないのである。『恋愛適齢期』の主人公、ダイアン・キートン演ずるエリカの場合は、どちらかというと、第二のケースだ。しかし、第一のケースへの精神的進化の途中という感じがする。
 自分らしい生き方をして自分の道を歩んでいる。
 しかし、その道を邪魔せず心地よい距離感を持って共感し合う能力がある、男性がいないから、一人なのである。
 エリカはよく知っている。女が自分らしく生きようとすると、その足を引っ張る男が、この世でほとんどであるということを。

年齢を重ねたからこそできる「自分らしさを生かした恋愛」

 男は、自分と一緒にいる時間を最優先してくれる女、自分の願いや要望をいつも受け入れて「ノーといわない女」を求めてしまうものだ。そして、そうしてくれないと「愛してくれていない」「お前は冷たい女」などと非難する。
 かくして、女は「自分の時間」を恋人に渡し、「自分らしい生き方」を少しずつ譲り渡し、「男のための良い妻」になっていく。そしてそのことを「愛」の名のもとに、男女共に、よし、としていくのである。
 こうして、押さえ込まれた「自分らしさ」はどうなるか。何十年も経ったあとで、子どもも巣立ち、夫との関係も熱を失ったところで、女は「私の人生って、何だったの? 良い妻、良い母以外、何があるの?私らしい人生って、それだけだったの?」
などと思って、落ち込んだりするのである。エリカはよく知っている。自分が恋をすると、相手に自分のすべてを与えてしまう、熱い女であることを。
 だからこそ「自分の時間」、自分らしさを守るために、男を寄せつけない壁をつくっているのである。
 ジャック・ニコルソン演ずる中年男・ハリーは、エリカに対し、「壁をつくっている」と非難するが、エリカのために、一言弁護するなら、その壁に、彼女自身が好きでつくった壁ではない。彼女が、劇作家という自分らしさを生かす人生を守るために、必要な壁なのだ。エリカの人生を受け入れてくれる、包容力のある「男性」がそばにいたのならば、彼女はそんなものをつくる必要はなかったのである。

 この映画は、単に「いくつになっても恋は素敵」などという恋愛映画ではないのである。男と女がいかに自分らしさを生かし、それをねじ曲げることなく、恋愛できるかということを、年齢を重ねて、初めてそれが理解できるのだという示唆が込められている。
 つまりお互いを縛り合うことではなく、確立した自分を持ちつつ共有できる人生は、それまでに築き上げた自分らしさを持っている人間同士でなければならない、というメッセージを含んでいるのである。
 この映画をどう観るか。それで、その人の心の成熟度がわかるという心理ドラマともいえる。